上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第28回)

その決断が命取りになった。馬謖が犯した最大のミス

2015.11.26 Thu連載バックナンバー

 馬謖(ばしょく)のことは知らなくても、「泣いて馬謖を斬る」という言葉を知っている人は、相当数いるようだ。今はあまり使われなくなったが、ひと昔前の日本では何らかの不始末をした人に罰を与えたり、会社で降格人事が行なわれたりした際に聞かれたという。

 

「心を攻めるべき」と進言し、南征を成功に導く

 その言葉の語源となった馬謖は、蜀(しょく)の諸葛亮の側近を務めた人物である。年齢は諸葛亮より9歳年下、良き弟であり愛弟子でもあった。あの諸葛亮に一目置かれたことから、歴史書である正史『三国志』に「並外れた才能の持ち主」と記されていることも頷けよう。

 224年、諸葛亮は蜀の南方に割拠する豪族・孟獲(もうかく)らを討伐に向かった。この時、馬謖は留守番を務めたが、諸葛亮を見送る際にこう進言する。

「心を攻めることが上策、武器をとって戦うことは下策です。彼らの心を屈服させるべきです」

 諸葛亮はこの言葉を採用し、敵を7度も捕らえながら、そのたびに逃がしてやった。結果、敵の首領・孟獲は逃亡を諦めて「もう二度と背きません」と心から服従する。馬謖のアドバイスが功を奏したのだ。南方を制した諸葛亮は、心おきなく北伐(魏の討伐)に向かうことができるようになった。

 

突如、命令に背く

 翌年、諸葛亮は馬謖を北伐に同行させ、重要な仕事を任せようと考えた。蜀軍にとって進軍の要ともいえる「街亭」(がいてい)という拠点の防衛である。ここを守り切ることが北伐成功の絶対条件ともいうべき要所だ。

 魏延(ぎえん)趙雲(ちょううん)といった歴戦の猛者を押しのけての抜擢(ばってき)に、周囲からは反対の声も多く挙がる。しかし、諸葛亮はそれらをなだめ馬謖を行かせた。諸葛亮は馬謖が出陣するにあたり、「水の手につながる通路を押さえ、道筋を堅く守るように」との指示を出しておいた。

 ところが、馬謖は街亭に到着するや、南にある小高い山に全軍を登らせ始める。… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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