上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第20回)

強すぎたことが災い。蜀の猛将・魏延の栄光と転落

2015.07.28 Tue連載バックナンバー

 豪傑の関羽(かんう)張飛(ちょうひ)を筆頭に、個性派ぞろいの劉備(りゅうび)軍団。魏延(ぎえん)という男も、自己主張の激しさ故にケンカ三昧だったという、そのアクの強さで読者に鮮烈なインパクトを与える人物だ。

 

尊敬する劉備から異例の大抜擢を受ける

 歴史書・正史「三国志」での魏延の登場は少し遅い。西暦211年、劉備が蜀(しょく=中国南西部)へ攻め入った時に一軍を率いて従う時が最初である。小説『三国志演義』では、劉備が蜀へ行く前の荊州(けいしゅう)攻略戦でデビュー。当時の主君・韓玄(かんげん)に謀反の疑いをかけられて、処刑されそうになった同僚の黄忠(こうちゅう)を救う見せ場がある。

 劉備は、魏延らの活躍にも助けられて蜀を制圧し、三国の一角をなす。続いて219年に漢中(かんちゅう)を攻略すると、魏延をその太守に任命し、守備を一任した。漢中は、魏(曹操が創業した国)との国境付近にある重要な前線基地。人々は長年の功臣でもある張飛がその役に就くと思っていたが、魏延が抜擢されたことに驚いたという。

 一番驚いたのは魏延本人だったかもしれない。大抜擢の理由は、蜀攻めで功績が大きかったことはもちろん、重要な仕事を与えることで、劉備は魏延の「やる気」を引き出そうとしたのではないだろうか。

「曹操が攻めて来たらこれを防ぎ、副将が攻めて来ればこれを呑み込んでみせます」

 感激した魏延はこう言って、さらなる忠誠を誓う。そして職務に励み、期待に応えて功績を立て続けた。223年に劉備が亡くなると、諸葛亮(しょかつりょう)がその大業を受け継ぎ、魏との戦いに連年挑むことになる。

 この頃には関羽・張飛・馬超・黄忠がすでになく、趙雲も229年に世を去った。「五虎将」(三国志演義)と呼ばれた彼らが去り、それに次ぐ地位にあった魏延は蜀随一の猛者として重んじられ、一層の働きを見せた。ここまでの彼の活躍は文句のつけようがない。

 

素行は悪いが、その実力は誰もが認めた

 あるとき魏延は丞相(じょうしょう=国の最高責任者)の諸葛亮に意見を述べる。… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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