上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第18回)

義理人情にあつい伊達男・甘寧、恩人の危機を救う

2015.06.25 Thu連載バックナンバー

 中国の南西部に、重慶(じゅうけい)という都市がある。三国志の時代には巴(は)と呼ばれた、その土地を根城にして暴れ回っていたのが、甘寧(かんねい)という男だ。彼は後に、孫権(そんけん=呉の初代皇帝)に仕え、呉の主力武将となる。

 

日本の時代劇にも出てきそうな、地元の「顔役」

 甘寧は若いころ、役所で会計係をしていたが、いつしか遊びふけるようになった。遊侠を好み、飾り立てた馬車や舟を乗り回し、派手な格好で若者たちを従えて歩いた。彼らは腰に鈴(すず)を付けていたので、その音で人々は「甘寧の一味だ」と分かったという。いわゆる「やくざ」であり、地元の「顔役」であった。

 自分の縄張りで強盗や傷害事件があると、役人に任せず甘寧が出てきて裁いたというから、日本の江戸時代でいえば「清水の次郎長(じろちょう)」のような任侠親分といったところだろう。おまけにキレやすく、刃傷沙汰に及ぶことも多かった。絵に描いたような「暴れん坊」だが、そんな己の素行を戒めるためか、読書にふけり勉学に励むこともあった。

 やがて、力をつけた甘寧は、都から派遣されてきた扈瑁(こぼう)という人物と手を組み、地元・益州(えきしゅう)の統治者・劉璋(りゅうしょう)に反乱を起こすが、これは無謀な戦いだったようで敗れてしまう。甘寧は800人の部下を連れて長江をくだり、東の荊州(けいしゅう)へ落ち延びた。

 甘寧一派は、荊州を統治していた劉表(りゅうひょう)を頼ったが、劉表は武よりも文を重んじる人物。「暴れん坊」の甘寧とソリが合うわけがない。召し抱えられたが、冷遇を受けた。むなしく時を過ごすうち、さらに東にいる孫権が優れた人物であると評判だったため、甘寧は孫権のもとへ向かおうとする。

 しかし、長江下流の夏口(かこう)まで行ったところで足止めされる。そこには劉表の部下・黄祖(こうそ)の軍勢が駐屯していたため、通過が許されなかったのだ。甘寧は仕方なく黄祖のもとに留まった。甘寧はここでも重く用いられず、不遇のまま3年ほど過ごす。

 

脱出を助けてくれた恩人の命を救う

 西暦203年、黄祖のところへ孫権が攻め込んできた。孫権の父・孫堅(そんけん)は、かつて黄祖軍との戦いで戦死しており、その仇を討つためだった。ここで甘寧は決断する。「こうなれば、孫権軍と精いっぱい戦って手柄を立てよう」と。

 いい所を見せる機会とばかりに、甘寧はこれを迎え撃って奮戦するが、… 続きを読む

全文(続き)を読む

続きを読むにはログインが必要です。

まだ会員でない方は、会員登録(無料)いただくと、続きが読めます。

連載記事

跡取り候補・劉封、諸葛亮の「死の宣告」に散る
上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

このページの先頭へ
Bizコンパス公式Facebook Bizコンパス公式Twitter