上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第17回)

時代の担い手だった貴公子・袁紹、大一番に敗れる!

2015.06.16 Tue連載バックナンバー

 袁紹(えんしょう)は、「後漢」と呼ばれる三国志の時代において強大な勢力を誇った群雄のひとりだ。一時期までは間違いなく最大の存在だったが、天下分け目の合戦「官渡(かんと)の戦い」で曹操に敗れ、その覇権を失うことになってしまった人物である。

 

上司の仇を討って、時代を先へと動かした

 袁紹は威厳のある風貌をしており、非常に高貴な家柄の出身だったため、若いころから都・洛陽(らくよう)でエリート官僚として活躍していた。当時、朝廷には大将軍(軍事の総責任者)の何進(かしん)という男がおり、その右腕として辣腕を振るっていたのだ。

 その頃の朝廷は、何進が率いる一派と宦官(かんがん=去勢された皇帝の召使い)たちが激しく対立していたが、あるとき何進は宦官グループに謀殺されてしまう。袁紹は以前から宦官たちの権力増大を憎々しく思っていたが、こうなっては行動するしかない。「それ、上司の仇討ち!」とばかりに近衛兵たちを城内に入れ、数千人いた宦官を皆殺しにしたのである。

 この袁紹の「決断」は、停滞していた歴史を大きく動かすきっかけになった。騒ぎに乗じ、都に各地の豪族たちがこぞってなだれ込んだのだ。その結果、都を乗っ取ったのは皇帝(献帝=けんてい)を、いち早く抱き込んだ董卓であった。

 皇帝の権威を我がものとし、横暴に振る舞う董卓に袁紹は詰め寄る。「皇帝を利用する逆賊め!」と、真っ向からぶつかったのだ。しかし、すでに都を制圧した怪物と宮廷で争っても勝ち目はない。そこで官職を投げ捨てて冀州(きしゅう=中国北西部)へ逃げ去った。

 宦官の抹殺、そして董卓に歯向かって都を脱した貴公子の行動は、多くの人の注目を浴びた。加えて、もともとの家柄の良さから経済力もあった袁紹のもとには、彼を頼って多くの人々が集まってきた。やがて、その兵力は数万人にも達する。

 西暦190年、袁紹は昔なじみでもあった曹操とともに「反董卓軍」を旗揚げした。孫堅(そんけん、呉を建国した孫権の父)・鮑信(ほうしん)・王匡(おうきょう)、袁紹の族弟の袁術(えんじゅつ)など、錚々たる顔ぶれが集まったが、その盟主になったのは袁紹だった。家柄の良さ、威厳と名声。満場一致で諸侯のリーダーに担ぎ上げられたのである。

 

河北を制し、天下に一番近い存在となる

 董卓の死後、天下はますます混迷の度合いを深める。連合軍も解散となり、いわゆる「群雄割拠」の様相を呈したのだ。… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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