上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第15回)

家族を捨て、曹操に喧嘩を売り続けた闘将・馬超

2015.05.19 Tue連載バックナンバー

 その図抜けた雄姿から「錦馬超」(きん ばちょう)と呼ばれ、蜀の五虎大将軍の一人に数えられる猛将(小説『三国志演義』)、馬超は中国北西部の涼州(りょうしゅう)という辺境で生まれた。

 彼をひと言で表すなら、「ケンカ屋」といったところだろうか。若い頃は、とにかく血気盛ん。馬超(ばちょう)という名前からして、いかにも危うい雰囲気を醸し出しているが、中国語だと「マチャオ」と、弱そうな発音になってしまうのは如何ともしがたい……。

 

若き猛将、戦場で死線を何度も潜り抜ける

 父は羌族(きょうぞく)とのハーフである馬騰(ばとう)という人物。正史に「タダものではない」と記される堂々とした風格の持ち主で、地元・涼州においては反乱軍との戦いで数々の戦功を挙げて名を馳せた存在だった。馬超もそんな父の血を受け継ぎ、優れた武勇を備えるようになり、特に異民族たちから、厚く信頼されていたようである。

 若い頃から戦場で暴れ回った馬超。ある戦いで矢を足に受け負傷するも、その足を袋に包んでなおも戦い続けて敵将を討ち、勝利している。また、ある時は閻行(えんこう)という武将と戦うが、矛に突き刺されて負傷、さらに折れた矛で首を締められ、殺されそうになった所をかろうじて助けられた(正史・張既伝)。

 小説『三国志演義』では無敵の武勇を誇る彼だが、正史では無鉄砲さが災いし、上記のような危うい目にも遭っている。生傷が絶えなかったことだろう。

 「赤壁の戦い」(208年)が起きる少し前、馬騰は曹操の招きに応じて許都(きょと)へ滞在することになった。この時、馬超も誘われたが彼自身は曹操の誘いを断っている。しかし、年老いた父は馬超の制止を振り切って都へ行くことを選んだ。

 

父と生き別れ、涼州のニューリーダーとなる… 続きを読む

全文(続き)を読む

続きを読むにはログインが必要です。

まだ会員でない方は、会員登録(無料)いただくと、続きが読めます。

連載記事

敵味方に分かれても「絆」は不滅!呉のNo.2・諸葛瑾
上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

このページの先頭へ
Bizコンパス公式Facebook Bizコンパス公式Twitter