上永哲矢の「三国志、歴史を変えた決断」(第14回)

「策士、策に溺れる」も、気骨ある死を選んだ陳宮

2015.04.27 Mon連載バックナンバー

 三国志にはさまざまな性格を持った人物が登場するが、この陳宮(ちんきゅう)ほど「策士」という言葉が似合う男もいない。とにかく策士すぎて、その真意は永遠の謎とされているほどだ。

 陳宮は当初、曹操に仕える参謀だった。ところが突如反乱を起こし、以降は呂布の参謀となり、「反曹操」の急先鋒として立ちはだかることになる。乱を起こした動機は、正史『三国志』に記されておらず、不明である。その代わり、小説『三国志演義』には、曹操と決別にいたる重要な事件が描かれる。

 

曹操に惚れ込むも、その残虐な行為に疑いを抱く

 西暦189年、曹操は董卓暗殺に失敗し、都・洛陽から逃走。この途中、通りがかった中牟県(ちゅうぼうけん)の県知事として陳宮は登場する。お尋ね者の曹操を捕らえるも、彼の志に感服し官職を捨て、共に逃亡を図るのだ。

 途中、2人は立ち寄った曹操の知人宅で一休みする。しかし、その家族たちが料理の準備をしていたところ、自分たちを殺す準備をしていると疑い、2人は家族たちを誤殺してしまう。

 その後、曹操は酒やご馳走を買って戻ってきた家の主人・呂伯奢(りょはくしゃ)をも殺したが「私が人に背こうとも、人が私に背くことは許さん」などど言い捨て、一向に悪びれる様子がなかった。陳宮は曹操に愛想を尽かし、以後信用しなくなったという。

 曹操の非道な行為はこれだけではない。4年後の193年、徐州(中国東北部・山東省付近)に攻め込み、殺戮の限りを尽くした。『後漢書』には数十万の男女を虐殺したとある。曹操は徐州の統治者、陶謙(とうけん)の部下に父や弟らを殺されたため、その報復を行なったと解釈されている。この虐殺は創作ではなく、史実に残る話である。陳宮は曹操のこうした残虐性を憎み、黙っていられなくなったようだ。

 義憤にかられ、陳宮はついに決断を下す。曹操が徐州攻めで領地・エン州を留守にしている間に、地元の豪族たちに働きかけ、領地の大半を乗っ取ってしまったのだ。

 

呂布を盟主に迎え「曹操打倒」の急先鋒となる

 乱のお膳立てを整えた陳宮は、そこに呂布を迎え入れ、盟主としてまつり上げた。董卓を討った猛将として名声抜群、精強な騎兵を従え、超人的な武勇の持ち主である呂布。彼に自分が知恵を貸せば、曹操に十分対抗できると踏んだのだろう。

 根拠地を奪われた曹操は、大いに狼狽する。しかし、… 続きを読む

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上永 哲矢

上永 哲矢

歴史コラムニスト、フリーライター

各種雑誌・ムックに歴史や旅の記事・コラムを連載。戦国時代や幕末など日本史を得意分野とするほか、三国志歴30年以上の愛好家としてイベント・講演の企画運営や、三国志関連本の制作にも関わっている。神奈川県横浜市出身。「オフィス哲舟」代表。公式サイト:http://kakutei.cside.com/job/

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