銘酒ふれあいの旅(第12回)

坂の上の雲に乗って、伊予の空を飛ぶ

2013.12.22 Sun連載バックナンバー

 皆様ご機嫌いかがですか。「銘酒ふれあいの旅」をご愛読いただき誠にありがとうございます。株式会社ミントスの大石敏夫です。小職は現在ビジネスマナーを中心とした各種研修を行う会社を経営していますが、以前は航空会社に勤めていました。今回は、その航空会社で伊予松山に新路線を開設した際のエピソードと、その時出会った銘酒についてお話したいと思います。

 

伊予松山

 愛媛というより伊予と呼ぶほうがこの地の心象にぴったり合うような気がする。
 司馬遼太郎は「坂の上の雲」の冒頭で次のように述べている。

 まことに小さな国が、開化期を迎えようとしている。
 その列島のなかの一つの島が四国であり、四国は、讃岐、阿波、土佐、伊予にわかれている。伊予の首邑(しゅゆう)は松山。
 城は、松山城という。(中略)古来、この城は四国最大の城とされたが、あたりの風景が優美なために、石垣も櫓(やぐら)も、そのように厳(いかつ)くはみえない。

 気候は温暖で、瀬戸内海の幸も豊富、おまけに温泉(道後)が湧き、風光明媚とくれば、厳ついものも柔らかく見え、たゆとうようにのんびりと時間が流れる。伊予という響きはまさにこの心象に合致する。その伊予に明治黎明期、坂の上の雲に向かって、文学に軍事に時代を切り開いていった三人の男が誕生したのは、いったいなぜであろうか。

 伊予松山は家康の異父弟を祖とする久松家の藩である。したがって幕末では佐幕藩で、長州征伐とか鳥羽伏見の戦いでは幕府方にくみした。維新では一時、同じ四国の勤皇藩土佐官軍の支配下におかれた。いくらのんびりしている伊予でもこれは大きな屈辱であった。好古真之の秋山兄弟や正岡子規は、このような時代に若き日を伊予で過ごした。この屈辱をばねに、彼らは坂の上の雲に向かってまっしぐらに突き進んでいったのである。

 

伊予松山の地を踏む

 1988年1月、はじめて伊予松山の地を踏むことになった。この坂の上の雲の地に、東京/松山線(航空路線)を開設するためである。この地は私にとって異国であった。なにしろ伊予はおろか、四国の地を踏むのは生まれてはじめてなのだ。… 続きを読む

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大石 敏夫

大石 敏夫

株式会社ミントス 代表取締役社長

1972年日本航空株式会社入社、勤労部、客室乗員訓練部、日航財団事務局長、運航乗員訓練部副部長等を務め、JALシミュレーターエンジニアリング常務取締役にて2007年退職。主に人材管理・育成部門を担当。
現在、ビジネスマナー、コミュニケーション中心とした研修会社、株式会社ミントスを経営するかたわら、大学にて講義を行っている。元桜美林大学特任教授、城西国際大学講師、日本観光研究学会会員、日本国際政治学会会員、メンタルヘルス資格(ラインケア)。

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