偉人・名将に学ぶ経営術(第8回)

徳川吉宗<後編>~実利主義でのぞんだ幕政改革~

2013.03.23 Sat連載バックナンバー

画期的な人材登用制度・足高の制

画期的な人材登用制度・足高の制 徳川吉宗は、徹底した実利主義で享保の改革を推し進めました。そのなかでも特に目立つのが、有能な人材の登用でした。
 当時の幕府の人事制度は、家禄と役職が連動していて、禄高の多い者しか重要な役職に就けないという決まりがありました。たとえば、江戸町奉行の場合は、3000石以上という条件がありました。いかに吉宗といえどもこの慣例を無視して、人事を行なうことはできなかったのです。
 しかし、吉宗は改革を潤滑にすすめるためには、あらたな人材の登用が不可欠であると考えました。ところが、吉宗が優れた人材と認める人物ほど、家禄が不足するなど、微禄の下級武士がほとんどだったのです。
 なんとしても有能な人物を登用したいと考えた吉宗は、この閉鎖的な身分制度の壁を破り、合法的に彼らを採用する方法を考案します。これが「足高の制」とよばれる新制度でした。
 足高とは、いまでいうところの役職手当、もしくは特別賞与にあたります。吉宗は登用したい人物に不足分の禄高を与えることによって家禄と役職の連動という古い決まりごとを崩したのです。しかも、足高は役職に就いている期間だけ支給し、役職を退くとともに支給を停止しました。財政が逼迫(ひっぱく)している幕府としては、できる限り人件費の増大は避けねばなりません。「足高の制」は幕府財政を圧迫することなく、有能な人材を登用できる画期的な新制度でした。

 

身分に関係なく有能な人材を登用

 そして、吉宗にとって幸運だったのは、 なぜ吉宗は将軍という体制側の人間でありながら、幕府人事を縛りつけていた閉鎖的で固定的な身分制度を崩したのでしょうか。その理由は、吉宗の生い立ちに大きな要因があったと考えられます。
 吉宗は1684(貞享元)年に、御三家のひとつ紀州藩主徳川光貞の四男として誕生します。母親が召し使いという極めて低い身分であったことから、生まれるとすぐに家臣に預けられ養育されました。5歳になってやっと父光貞から実子であることを認知されます。そして、14歳の時に5代将軍徳川綱吉より越前丹生3万石を与えられ、ようやく歴史にその姿を現しました。このように大藩紀州藩主の子として生まれながら、身分の低い母から生まれた庶子として苦労したために、お城育ちの大名の継嗣とは異なり、世情に通じていたのです。

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高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

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ベストフィールズ代表

大手アパレルで店舗開発を担当、その後、専門誌系出版社で企画編集を中心に勤務、退社後、編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」を立ち上げる。旅行・歴史・フード・ペット・マリンスポーツなどのエンタメ系から経済、ファッションまで幅広い分野での書籍・雑誌・ムック・商業制作物の執筆、編集、撮影、制作を行なっている。

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