偉人・名将に学ぶ経営術(第4回)

武田信玄<後編>~合議制の採用とリーダーとしての決断力~

2013.02.25 Mon連載バックナンバー

 経済的に脆弱な甲斐の武田家を最強の戦国大名に育て上げた武田信玄。戦いの天才というイメージが強いが、その偉大さは人材を活かしきる人事管理のスペシャリストとして、強靭な家臣団を構築したことにあった。後編は、合議制の採用とリーダーとしての決断力、そして厳しさについてお話しましょう。

 

部下のやる気を奮起させる合議制

 武田信玄は家臣達の能力を最大限に引き出すために「合議制」を採用し、今でいう「会議」を盛んに行ないました。これは戦国時代では珍しいことでした。合戦などにおける重要な決断は、戦国大名が単独で行なうか、あるいは少数の側近の意見を聞き、決定するのが普通でした。
 食うか食われるかの戦国の世で、多くの家臣達を交えて重要な事柄を話し合うのはとても危険でした。もし、その場に敵のスパイがいて、情報が漏れでもしたら取り返しのつかないことになります。
 しかし、信玄は合議制を採用したのです。それは、信玄が家臣達を信頼していたからにほかなりません。合議の席で、信玄は出席した家臣全員に意見を述べるように促したといいます。家臣達も、一人ひとりが、武田家という組織に主体的に参加しているという意識と連帯感をもち、真剣に考えたうえで意見を述べたことでしょう。
 そして、家臣の意見により合戦に勝利したり、問題の解決策を得たりした時、信玄は自分の采配は二の次にし、家臣達の働きを第一の功としました。こうした信玄のリーダーとしての姿に家臣達はさらなるやる気を奮い立たせたでしょう。部下を認めて、褒めることにより最良の組織を作り上げていくというチームマネジメントを、信玄は実践していたのです。

 

組織のためにくだした非情な決断力

 信玄は、父・武田信虎を追放して、甲斐の国主の座に着きました。さらに、後継者として、将来に期待をかけていた嫡男・武田義信を自刃させます。この事件は今川家の本領・駿河侵攻を決断した信玄に、義信が反発したことが契機となりました。今川家と武田家は信虎の時から縁戚関係を結び、義信は今川義元の娘(嶺松院)を夫人としていました。義信は愛する妻の実家を攻めることを承服できなかったのです。
 しかし、情勢は逼迫(ひっぱく)していました。桶狭間の戦いの後、義元の跡を継いだ今川氏真が、松平元康(徳川家康)の圧力に抗しきれず、領国を保つことが困難になっていたのです。このまま、手をこまねいていたら今川家の領国は松平家のものになってしまいかねませんでした。
 ここに信玄は、駿河侵攻を宣言します。これに対して義信は側近とともに、信玄暗殺を企てます。信玄は、義信の側近を処断するとともに、義信を東光寺に幽閉し、ついに自刃させました。
 駿河を得ることは、信玄にとって単に領国の拡大にとどまらず、「海」を得ることでした。当時、海に面した領国をもっていれば、海上貿易がもたらす富と、海上ルートを手にすることができました。事実、駿河攻略の後、信玄は積極的に水軍をつくり、将来の上洛へ備え、海の道を押さえています。
 現代の企業においても世襲制の是非は議論の的となっています。もちろん、創業家にも優秀な人材は多くいるでしょう。しかし、経営者として組織を守るために… 続きを読む

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高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

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ベストフィールズ代表

大手アパレルで店舗開発を担当、その後、専門誌系出版社で企画編集を中心に勤務、退社後、編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」を立ち上げる。旅行・歴史・フード・ペット・マリンスポーツなどのエンタメ系から経済、ファッションまで幅広い分野での書籍・雑誌・ムック・商業制作物の執筆、編集、撮影、制作を行なっている。

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