偉人・名将に学ぶ経営術(第3回)

武田信玄<前編>~人事管理の達人が行なう人材活用術~

2013.02.19 Tue連載バックナンバー

 経済的に脆弱な甲斐の武田家を最強の戦国大名に育て上げた武田信玄。戦いの天才というイメージが強いが、その偉大さは人材を活かしきる人事管理のスペシャリストとして、強靭な家臣団を構築したことにあった。第1回は、信玄が行なった人材活用術についてお話ししましょう。

 

父を追放したクーデターで知った家臣の大切さ

父を追放したクーデターで知った家臣の大切さ
要害城(ようがいじょう)

 武田信玄は、大永元年(1521)年、甲斐の守護・武田信虎の嫡男として府中(甲府市)に生まれました。元服後に晴信と名乗り、出家して信玄と改名しました。信玄が生まれた当時、信虎は、甲斐国統一事業の最終段階に入っており、国内外の敵と戦に明け暮れていました。信玄が生まれる直前に、今川氏の侵攻を受け、府中が危機にさらされます。信虎は、身重であった夫人を要害城に避難させ、ここで信玄が生まれます。その後、信虎は、外敵と和睦、さらに敵対する国人衆を屈服させ、ついに甲斐を統一します。
 しかし、この戦乱により、国土が荒廃、武士も百姓も疲弊しきってしまいました。信虎は、超ワンマンな暴君でした。信虎に対して諫言した重臣達を殺害し、板垣信方、甘利虎泰などの家老達との折り合いが悪化してしまいます。
 信玄は、そんな信虎とたびたび衝突します。信虎は信玄を嫌い、次男信繁を立て、信玄の廃嫡を企てます。しかし、信虎はすでに家臣達の信頼を失っていました。信玄は板垣ら家老達の支持を得て、クーデターを決行、父を駿河に追放します。この時、信玄は弱冠20歳という若さでした。カリスマ的な暴君・信虎を追放するという一か八かのクーデターに対して、協力を惜しまなかった家臣達の大切さを身にしみて感じたに違いありません。信玄が人事管理の重要さを実感したのは、まさにこの時であったと考えられます。

 

優秀な人材こそがなによりも大切

優秀な人材こそがなによりも大切
武田神社

 信玄は数々の名言を今に残しています。なかでも有名なのが「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」という言葉です。これは、現代でいうところの「企業は人なり」と同じことです。「いくら堅固な城郭を築こうが、人心が離れてしまっては全く意味がない。情けは人をつなぎとめ、国を繁栄させるが、仇は人を離れさせ、その結果として国は衰退する」という意味で、「優秀な人材こそが最も大切だ」と述べているのです。
 現代の企業も、その分野でどんなに大きな力やシェアを持っていても、それを支えていく人材がいなければ、… 続きを読む

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高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

ベストフィールズ代表

大手アパレルで店舗開発を担当、その後、専門誌系出版社で企画編集を中心に勤務、退社後、編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」を立ち上げる。旅行・歴史・フード・ペット・マリンスポーツなどのエンタメ系から経済、ファッションまで幅広い分野での書籍・雑誌・ムック・商業制作物の執筆、編集、撮影、制作を行なっている。

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