偉人・名将に学ぶ経営術(第1回)

織田信長<前編>~徹底した能力主義と公平な査定~

2013.02.02 Sat連載バックナンバー

 安土桃山時代の礎を築いた織田信長。天下統一を目指した戦国大名として、決して強くなかった母体(領地)をいかにして強力なものにしたのか。第1回は、人材登用・能力主義・査定の面から探ってみました。

 

20万石の領地を30年で40倍に拡大

20万石の領地を30年で40倍に拡大

清州城

 織田信長は、天文3(1534)年、尾張国の戦国大名・織田信秀の嫡男として生まれました。
 この当時、尾張国では、守護職・斯波氏の力が弱まり、守護代の織田信友(清洲城主)が実権を握っていました。信長の父・信秀は信友の重臣でしたが、武略をもってその支配権を拡大していました。諸説ありますが、天文20(1551)年、信秀が没した直後に信長が引き継いだ領地は尾張半国の約20万石といわれています。しかし、天正10(1582)年、信長が本能寺の変で斃(たお)れる直前には、その直轄領だけで、600万石、さらに柴田勝家などの重臣に与えた領地を合わせると、800万石に及んだといわれています。
 わずか30年で、父から受け継いだ領地を、40倍に増やしたのです。これは、天下人となった豊臣秀吉や徳川家康を除けば、異例の数字といえます。信長のライバルとされた、武田信玄でも6倍(20万石→120万石)、上杉謙信でも10倍(10万石→100万石、※いずれも諸説あり)ほどにしか領地を増やせませんでした。
 信長が、20万石という戦国大名としては中規模程度の領地をどのようにして800万石まで増やせたのか。そこには、領国経営にあたり、卓越した手腕を発揮した信長の姿があるのです。

 

「天下布武」のもと優れた人材を次々に登用

 信長は領地の拡大とともに、新参の家臣を多く召し抱えています。信長の領地拡大は、天下統一への道程、すなわち「天下布武」の戦いでした。彼は「天下布武」という朱印を用いることにより、自分は「日本で一番の戦国大名になる」というビジョンを公言していたのです。
 現代でいえば、中規模程度の企業が大きく業績を伸ばし、社長が一部上場を目指すことを宣言するのと同じことです。信長のこの有言実行の姿は、仕官を願っている人々にとっては、魅力的に映ったことでしょう。これにより、織田家へ人々が押し寄せました。もちろん、信長も、人材を積極的に求めていました。優秀な人材がいると聞くと、右筆(書記・文官)をスカウトマンとして派遣、最後は信長自身が面接を行い、採用を決めました。
 こうして、織田家に就職した人に、豊臣秀吉、明智光秀、滝川一益などがいました。秀吉は人使いが巧みで調略の天才、光秀は諸国の事情に詳しく、足利将軍家と深い関係を持っていました。また、一益も軍事・行政両面の手腕に優れていました。彼らは、信長自身がヘッドハンティングした優秀なスペシャリストであったのです。

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高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

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ベストフィールズ代表

大手アパレルで店舗開発を担当、その後、専門誌系出版社で企画編集を中心に勤務、退社後、編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」を立ち上げる。旅行・歴史・フード・ペット・マリンスポーツなどのエンタメ系から経済、ファッションまで幅広い分野での書籍・雑誌・ムック・商業制作物の執筆、編集、撮影、制作を行なっている。

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