戦国武将 散り際の美学(第45回)

福島正則~家康に使い捨てられた、猛将の哀れな末路

2015.03.15 Sun連載バックナンバー

生没年

生:永禄4年(1561年)
没:寛永元年7月13日(1624年8月26日) 享年64

 

桶屋の息子が24万石の大名に

 福島正則は、豊臣秀吉子飼いの武将筆頭に挙げられる。出身は武士ではなく尾張(愛知県西部)の桶屋で、生母・松雲院(しょううんいん)は秀吉の生母・天瑞院(てんずいいん)の姉妹、または従姉妹だと言われている。つまり、秀吉とは従兄弟か、それに近い関係だった。

 その縁もあって幼い頃から秀吉に仕え、数々の戦いで勇名を馳せた。天正6(1578)年の三木城攻めで初陣を飾り、2つの首級を挙げる快挙を成し遂げる。しかしその武名を揺るぎないものにしたのは、やはり秀吉と柴田勝家が争った天正11(1583)年の賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いだろう。正則は一番槍をあげて、勇猛で知られた敵将・拝郷家嘉(はいごういえよし)を討ち取る。その功績を称えられ、「賤ヶ岳七本槍」の一人に数えられた。

 5,000石の知行を獲得した正則はその後も秀吉に従い、小牧・長久手の戦い、九州征伐、小田原征伐、朝鮮出兵(文禄・慶長の役)にも参戦し、その際には兵糧の調達・補給を行った。九州では検地を実施するなど、武の面だけでなく政治面でも秀吉の天下統一を大いに助けた。天正15(1587)年には伊予(愛媛県)の今治城の城主に、文禄4(1595年)年には尾張の清洲城主となる。かくして桶屋の息子は、24万石を持つ大名となった。

 

三成との不和を家康が狙う

 とんとん拍子に出世していった正則だったが、慶長の役において攻略を進めていたところで暗雲が立ちこめ始める。石田三成との不和が生じ、両者はたびたび対立するようになる。

 そして秀吉が亡くなると、両者の間にできた溝は修復不可能な状態にまで深まってしまう。猪突猛進な武辺者として生きてきた正則にとって、頭の固い文治派の三成とはよほど反りが合わなかったか、もしくは豊臣恩顧の忠臣を自負する正則の目には、三成が幼主・秀頼を擁して豊臣家を牛耳る奸臣(かんしん、邪悪な心を持った家来)と映ったのかもしれない。

 この豊臣家臣団の不和につけ込んだのが、天下を狙う家康であった。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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