戦国武将 散り際の美学(第43回)

黒田長政~徳川の天下を支えた関ヶ原一の功労者

2015.02.21 Sat連載バックナンバー

生没年

生:永禄11年12月3日(1568年12月21日)
没:元和9年8月4日(1623年8月29日) 享年56

 

信長の人質としての幼少時代

 「われら親子二代の働きがなければ、今の徳川家の天下はなかった」。生前の黒田長政は、しばしば家臣にそう語っていたそうだ。それほど、家康を天下人にしたのは黒田家の功績だという自負が大きかったのであろう。

 豊臣秀吉の軍師を務めた黒田官兵衛(如水)の嫡男として播磨・姫路城(兵庫県姫路市)に生まれた長政。しかし彼は、幼き日に一度織田信長に処刑されそうになったことがある。天正5(1577)年、信長の人質として秀吉に預けられた長政は、幼少期を近江国の長浜城(滋賀県長浜市)で過ごす。

 その翌年、信長に仕えていた荒木村重が突如謀反を起こし、有岡城の戦いが起こる。この戦いに際し、当時村重と懇意だった官兵衛は彼を説得するため有岡城へ向かうも、説得に失敗し拘束されてしまう。信長はなかなか帰ってこない官兵衛が村重に寝返ったものとみなし、人質である長政の処刑を命ずる。そこを官兵衛の親友・竹中重治(半兵衛)に匿われ、なんとか処刑を免れる。その後、有岡城から戻って謀反の疑いを晴らした官兵衛とともに、長政は生まれ故郷の姫路へと戻ることができたのだった。

 本能寺の変の後は官兵衛とともに秀吉に仕え、備中高松城の戦い、賤ヶ岳の戦い、小牧・長久手の戦いと着実に武功を上げている。天正15(1587)年の九州征伐では日向財部城(宮崎県高鍋町)攻めに尽力。この戦いでは官兵衛とともにその戦いぶりを大きく評価され、豊前国中津(大分県中津市)に12万5,000石を与えられている。

 秀吉にその才器を怖れられた官兵衛は天正17(1589)年、44歳の若さで早々に隠居。家督は長政が継ぐこととなった。家督相続後も文禄・慶長の役での二度にわたる朝鮮出兵を経験するなど、長政は幾度となく合戦の地へ赴いた。

 

家康が認めた関ヶ原での活躍

 父が知略の人だったのに対し、息子は武勇に優れた律儀者であったようだ。それは関ヶ原での2人の働きによく表れている。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

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歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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