戦国武将 散り際の美学(第44回)

島津義弘~薩摩の未来を開いた敵中突破の脱出

2015.02.24 Tue連載バックナンバー

生没年

生:天文4年(1535年)
没:元和5年7月21日(1619年8月30日) 享年85

 

島津四兄弟の中でも傑出した猛将

 島津氏は、源頼朝から地頭に任じられた島津忠久を祖とした薩摩(鹿児島県)の名門である(忠久は頼朝の落胤説もある)。その中でも戦国期、屈強な名将達として賛美されるのが「島津四兄弟」、すなわち義久義弘歳久家久である。

 次男の義弘は特に勇猛果敢な猛将として知られ、初陣から関ヶ原の戦いまでの計52回の合戦に参戦、個性豊かな兄弟たちと連携しながら、数々の軍功を挙げた。

 祖父・忠良は義弘を「雄武英略(ゆうぶえいりゃく)をもって傑出」していると賞し、幼い義弘には合戦において重要なこととして「たとえ場所によって先に敗れてしまうことになっても、後の閉じ目(締めくくり)が肝要だ」と説いたとされる。義弘はまた和歌や連歌のたしなみも深く、茶の湯や医術にも精通しており、まさに文武両道を兼ね備えた武将だった。

 義弘は祖父の見立て通り、耳川(みみかわ)の戦いや文禄・慶長の役で数々の軍功を挙げる。寡兵で敵をおびきよせ、銃火器による一斉射撃にて敵を葬るのを得意の戦法としており、明・朝鮮軍からは「グイシーマンズ(鬼島津)」と怖れられた。

 そんな彼の最後の合戦となり、その名声を不動のものとしたのが、関ヶ原の戦いである。

 

「島津の退き口」の名声

 66歳のとき、内部事情もあってわずか約1,500名の手勢を率いて西軍に参加することになった義弘は、戦闘が始まってもそのまま軍勢を待機させていた。得意の鉄砲による集中攻撃のため、敵をおびきよせるためである。

 しかし、突如起こった小早川秀秋の裏切りによって西軍は敗走を始め、島津は敵中に孤立してしまう。このまま後退すれば、東軍の包囲網の中に閉じ込められてしまう、ましてや敵に背後を見せるなど気性に合わぬ。そう感じた義弘は、寡兵となった島津軍とともに、敵中突破の脱出戦という驚くべき作戦を敢行した。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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