戦国武将 散り際の美学(第40回)

古田織部~茶の湯で天下を取った男の不可解な死

2015.01.31 Sat連載バックナンバー

生没年

生:天文13年(1544年)
没:慶長20年6月11日(1615年7月6日) 享年72

 

利休に見出された天下の宗匠

 戦国時代には、“数奇者(すきもの)”を称する武人・町人が大勢いた。「数奇」は「好き」の当て字であり、数奇者は茶の湯に執心し、茶道具の目利きや斬新な茶器づくりに己のプライドをかけた者たちのことである。

 秀吉治世下の桃山時代は、茶の湯のバブル絶頂期。戦国期を生き抜いた大名、または商業で成功した成り上がりたちは茶の湯ブームにのり、煌びやかな文化を謳歌した。

 そんなバブル文化の只中で、古田織部(本名は重然。しげなり)は、「織部焼」を生み出した数寄者中の数寄者として名高い。もともとは美濃(岐阜県)守護大名の土岐氏に仕えた武家で、美濃が織田信長に平定されると、これに属した。信長が本能寺の変で落命すると、豊臣政権下で力を伸ばし、京郊外の西岡城主として、3万5,000石の大名となっている。

 そんな織部は天正11(1583)年、運命的な出会いを果たす。織部は秀吉が大坂城の座敷で催した茶会の席に出席すると、そこには都会的で洗練された茶の世界があった。織部はすっかり魅入られてしまう。

 この茶会の茶頭役を務めたのが千利休、「佗び茶(わびちゃ)」を大成させた天下の茶人だった。織部はこれより千利休を師と仰ぎ、茶の湯の世界に没頭していく。織部を門弟として迎え入れた千利休は、この織部の鋭い美的才覚、そして芸術の世界への並々ならぬ執心を見抜いた。そして自身の茶の世界を正しく理解し、宗匠(そうしょう、文芸を教える立場にある人のこと)として継承できるのは織部だけだと、同じ門弟の細川三斎(忠興)に話している。

 千利休に師事した織部はその言葉通り、利休亡き後、宗匠の座を継ぐことになった。宗匠となると、織部は自身の美的センスを思う存分に開花させ、利休の「佗び茶」の世界から一歩前へ踏み出し、独自の解釈をもって織部流の茶の世界を創り上げる。

 師匠の利休は極限まで無駄を無くし、内面の精神の美を掘り下げる「静」の世界だったが、対して織部の茶は… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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