戦国武将 散り際の美学(第38回)

真田昌幸~家康が幸村よりも恐れた謀将

2015.01.18 Sun連載バックナンバー

生没年

生:天文16年(1547年)
没:慶長16年6月4日(1611年7月13日) 享年65

 

徳川を2度も撃退した「表裏比興の者」

 大坂冬の陣勃発の3年前、高野山山麓の九度山村のうらぶれた屋敷内で、家康打倒の秘策を語る2人の武将がいた。大坂の陣で家康を追い詰めることになる真田幸村と、その父・昌幸である。このとき病の床に臥していた昌幸は、わが子幸村の目を見つめ、次のように断言した。

「あと3年、我が命があれば、家康の首を獲ってみせようものを」

 か細くも確信めいた声でこうつぶやく昌幸は、かつて“謀略の名将”と恐れられた。特に家康への敵対心は強く、2度にわたって徳川軍と刃を交わし、2度ともその知略を使い、破っているのだ。

 「我が両眼のごとき者」──昌幸の謀略の才は、かつての主君である武田信玄に見出されたものだった。父親の幸隆の代より信玄の近習として仕えており、曽根昌世(そねまさただ)と並び称された昌幸は、直々に信玄の戦術を学び、戦局を見抜く観察眼を磨いてきた。もとより、真田家は信州の小豪族である。大軍を相手に信州の地を守るには、各地の情勢をうかがいながら、知略の限りを尽くして生き延びる必要があったのだ。

 武田家が滅亡した後も、昌幸は北条、織田、徳川と、次々に主君を変えながらも生き延びる。しかし、天正10(1582)年6月、昌幸の運命をゆさぶる事件が起こった。武田の旧領である甲斐(山梨県)や信濃(長野県)、上野(群馬県)方面へ、上杉・北条・徳川といった周囲の大名たちが侵攻したのだ。天正壬午の乱である。

 最終的には各将互いに講和が成るが、この時、徳川家康が北条氏直との和睦の条件として、昌幸の沼田領(群馬県沼田市)を氏直に割譲することを一方的に決めつけてしまったのだ。弱小大名として侮られ、故郷の地を踏みにじられることに憤慨した昌幸は、徳川に反旗を翻した。そして家康の大軍を、信州上田城(長野県上田市)で迎え撃ったのである。

「徳川家康め、何する者ぞ」

 昌幸には勝算があった。敵軍7,000人に対してこちらは1,000あまりと、格段の兵力差があったものの、地の利、そして複雑な城郭構成を存分に生かして、周到に罠をはりめぐらせたのだ。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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