戦国武将 散り際の美学(第37回)

加藤清正~毒まんじゅう暗殺事件の真相とは?

2015.01.11 Sun連載バックナンバー

生没年

生:永禄5年6月24日(1562年7月25日)
没:慶長16年6月24日(1611年8月2日) 享年50

 

豊臣と徳川の板挟みの中で

 慶長16(1611)年3月。二条城で徳川家康豊臣秀頼との会見を無事に終えた加藤清正とその家臣団は、大坂から領国の熊本へと帰っていた。「これで豊臣家は安泰だ……」。行きとは違い緊張感の解かれた船に揺られながら、誰もがそう思っていた。

 清正の容態が急変したのは、その船中でのことだった。嘔吐を続け苦しむ主君を前に、家臣はなす術がなかった。やがて熊本に到着するや、ほどなくして死去する。この突然のあっけない死に、家臣の誰もが家康に嫌疑を向けずにはいられなかった。「まさか、大御所様が毒を盛ったのではないか」――。

 加藤清正といえば賤ヶ岳の戦いで活躍した「賤ヶ岳の七本槍」のうちの1人である。朝鮮出兵中には自陣の近くを荒らしまわった虎を槍で一突きして退治したという「虎退治」の伝説まで残る、勇猛果敢な人物だ。秀吉子飼いの武将であり、清正も生涯忠誠を尽くした。

 しかし、秀吉の死後には身の振り方に苦慮する。天下を狙う家康か、政敵である三成か。清正は結局家康の率いる東軍に味方する。慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いでは本戦にこそ参加しなかったものの、九州で小西行長の宇土城(熊本県宇土市)を開城、城代の弟・行景を自刃にまで追い込んだ。戦後はこの戦いぶりが評価され、54万石を与えられた。

 こうして徳川幕府のもとで大大名になった清正だが、豊臣家への恩義は決して忘れていなかった。豊臣家と徳川家の間に良好な関係を築くことこそが自分の使命だと考えていた清正は、慶長16年3月、京都・二条城において家康と秀頼の会見を取り持つ。家康と対立する淀殿の反対を押し切っての秀頼上洛であった。万一のことがあってはいけないと、清正は移動中も会見中も、秀頼のそばを片時も離れなかったという。

 酒や豪華な昼食が振る舞われる賑やかな会見だった。随伴した武将たちにも次の間で饗宴が開かれたが、清正はこれを受けることなく常に秀頼のそばについていたという。

 2時間ほどの会見は何事もなく終了し、表面上は両家の和解が成立した。強大な両家の和解を、大坂や京の庶民たちも喜んだ。しかし、一番喜んだのは清正であったに違いない。「これで豊臣家は存続する…」。彼の胸中はその思いでいっぱいだったことだろう。

 

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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