戦国武将 散り際の美学(第36回)

小早川秀秋~東軍を勝利に導いた裏切りの代償

2014.12.28 Sun連載バックナンバー

生没年

生 天正10年(1582年)
没 慶長7年10月18日(1602年12月1日)  享年21

 

反故にされた「秀吉後継」の座

 小早川秀秋は秀吉の正室・おね(高台院)の甥にあたる。3歳の時に秀吉の養子となり、後継者として秀吉夫婦に愛されて育った。そのため若年でありながら高い地位を与えられ、丹波亀山(京都府亀山市)の10万石の大名となるも、秀頼の誕生によって彼の運命は一変する。秀吉は、淀殿との間の一粒種として生まれた秀頼を溺愛するようになり、秀秋のことなど気にとめなくなったのだ。

 秀吉は厄介払いをするかのごとく、秀秋を小早川家の養子に出す。秀吉は最初は毛利輝元のもとへ出そうとしたものの、毛利嫡流に何の縁もない他家の血を入れることを危惧した輝元の伯父の小早川隆景が、毛利元就の孫・秀元を輝元の養嫡子にすえた上で、秀秋を小早川家の養子として自ら進んで迎えたという。こうして秀秋は隆景の後を継ぎ、筑前名島城主(福岡県福岡市)となった。

 秀秋は慶長2(1597)年、秀吉の命により、朝鮮出兵の命を受け、渡海軍の大将として朝鮮に向かった。そこでは絶体絶命の危機にあった加藤清正を救出したり、自ら陣頭に立って敵軍を追撃して敵を打ち破るなど武功を上げるも、このことが帰国後、大将にあるまじき危険な行為だと非難され、所領没収・転封を命じられてしまった。

 秀秋を糾弾したのは、石田三成だったという。その三成は秀吉の側室・淀殿に近い人物で、淀殿は正室の高台院と対立していたという背景があった。しかし、秀吉が没するとその命令は取り消され、無事秀秋は旧領復帰を叶えた。それは徳川家康の口利きによるものだったとされる。三成によって窮地に立たされた自分を助けてくれた家康に対し、秀秋が恩義を感じたのは言うまでもない。

 

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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