戦国武将 散り際の美学(第35回)

島左近~孤高の義士・三成に魅せられた関ヶ原の鬼神

2014.12.21 Sun連載バックナンバー

生没年

生:天文9年5月5日(1540年6月9日)※諸説あり
没:慶長5年9月15日(1600年10月21日)※諸説あり 享年61?

 

不義を嫌う主なればこそ

 「三成に過ぎたるものがふたつあり、島の左近と佐和山の城」とまで言われた三成の重臣、島左近。その素性は謎に包まれており、左近が石田三成に仕えた時期も明らかではない。

 左近は天正19(1591)年頃は豊臣秀長とその嗣子(しし、跡継ぎのこと)・秀保に仕えていたとされている。しかし『多聞院日記』では秀保が渡海しなかった文禄元(1592)年の朝鮮の役で、左近は石田三成らと同じく朝鮮へ渡ったことが確認されるため、この時期には既に石田家に仕えていたと考えられる。

 朝鮮の役で左近は豊臣軍の軍略を担い、関ヶ原の前哨戦である杭瀬川(くいぜがわ)の戦いでは完勝を収めて西軍を鼓舞した。

 杭瀬川の勝利後、島津義弘らが家康の陣への夜襲を進言したが、卑怯を嫌う三成は却下している。その話を聞いた左近は、一瞬笑みを浮かべた。「卑怯などと言っていては戦に勝てぬ。しかし、それでこそわが殿よ」。

 左近は、不器用なまでに清く誇り高い三成の性格に惚れていた。そして、一説には石高の半分をはたいたともいわれる破格の高禄で自分を召抱えた物好きな三成の、馬鹿馬鹿しくも美しい大志に正面から応えたい、その決意を胸に左近は戦略を練り、決戦の地に向かった。

 

身を盾とした「鬼左近」の勇姿

 左近の本領は戦場にあったといえるだろう。関ヶ原では先陣を切り、序盤を西軍有利に運んで家康をやきもきさせている。

 だが、左近が黒田長政軍の銃撃で負傷し、後退してから、旗色が変わる。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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