戦国武将 散り際の美学(第33回)

大谷吉継~友のために命を賭した義将の見事な最期

2014.12.07 Sun連載バックナンバー

生没年

生:永禄2年(1559年)※諸説有り
没:慶長5年9月15日(1600年10月21日) 享年42

 

「この命くれてやろう」

 大谷吉継はあらゆる分野に及ぶ多彩な才能の持ち主であった。

 天正18(1590)年の小田原の城攻めでは、秀吉の使者として徳川家康と交渉し参陣の約束を取り付け、また、文禄元(1592)年から始まる朝鮮の役の際には奉行として海を渡り、兵站の確保から戦地の視察、外交交渉までを行った。

 武略においては天正11(1583)年の賤ヶ岳の戦いで柴田勝豊を寝返らせ、戦場においては“三振の太刀”と称される武功を挙げる。

 まさに万能の武将である。秀吉はこの才能を高く買い、「百万の将兵を指揮させてみたい」と評し、天正13(1585)年には従五位下・刑部少輔に叙任され、前後して敦賀城(福井県敦賀市)5万石を与えられている。

 しかしその後、病が吉継を襲う。当時不治の病であった悪瘡、一説にはハンセン病といわれているその病によって皮膚は爛れて崩れ落ち、やがて体中が膿みをもって腫れ、慶長5(1600)年頃には既に歩くこともままならなかったという。

 その頃、石田三成と家康の対立は決定的なものになってゆく。しかし家康を目の仇にしていた三成と違い、大谷吉継は家康の将器を評価していた。三成から家康討伐軍への参加を頼まれたときも、「お前が家康におよぶものは何一つない。この企ては失敗に終わるだろう」ときっぱり言い放っている。だが三成は吉継を、必死に説得した。

 このとき、吉継の脳裏にある情景がよみがえった──。茶会の席で作法にのっとり回し飲みされる茶碗は、吉継が口をつけた後は誰も口をつけず、飲むふりだけで回されてゆく。病に冒された吉継を諸将は気味悪がったが、三成は違った。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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