戦国武将 散り際の美学(第31回)

長宗我部元親~四国の雄、愛息の死により暴君と化す

2014.11.23 Sun連載バックナンバー

生没年

生:天文8年(1539年)
没:慶長4年5月19日(1599年7月11日) 享年61

 

はかなく消えた四国統一

 長宗我部元親は幼少の頃、家臣たちから「姫若子」と嘲笑されていた。後世に文化人としても知られる元親だが、幼い嫡男が書物に親しむ様子は、乗馬や武の道に励むことこそを至上とする戦意旺盛な土佐(高知県)の武士たちには、なよなよとした女子のように頼りなく見えたのだろう。

 そんな元親が初めて戦場に立ったのは永禄3(1560)年、22歳頃の事であり、当時としては異例なほど遅い初陣であった。しかし、そんな家臣達の不安をよそに元親は初めての戦場で自ら部隊を率いて70もの敵の首級を挙げ、その鬼神の如き活躍からそれ以降は「鬼若子」と呼ばれるようになったという。

 こうして初陣で倍以上の軍勢を相手に槍を振るい勇戦した後は元親は一転して配下の信頼を獲得。永禄3(1560)年、父・国親の病死にともない家督を相続した。

 元親は「一領具足」と呼ばれる半農半兵の兵士を組織して、次々と土佐の有力豪族を下し、土佐統一を成し遂げる。「土佐の出来人」と異名をとる有力大名へと成長した元親の次なる目標は、四国制覇であった。

 元親は阿波(徳島県)・讃岐(香川県)・伊予(愛媛県)に侵攻して支配下に置き、土佐統一から10年目の天正13(1585)年、ついに四国のほぼ全ての土地を統一して念願を果たした。

 しかし同年、天下取りを目指す豊臣秀吉が四国征伐へと乗り出してくる。10万余の軍勢を相手に2カ月余り戦ったのち降伏。土佐一国のみを安堵された。四国統一はわずか1年にも満たない、はかない夢に終わったのである。

 

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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