戦国武将 散り際の美学(第28回)

千利休~天下の茶頭はなぜ切腹させられたのか?

2014.11.02 Sun連載バックナンバー

生没年

生:大永2年(1522年)
没:天正19年2月28日(1591年4月21日) 享年70

 

武士にひけをとらぬ立派な切腹

 春の空が荒れていた。雷鳴がとどろき、大粒の雹が地面を打った。親友である大徳寺古渓(こけい)和尚に末期の一句を聞かれ、「白日晴天怒電走」と答えた、その心境のままの天候だった。

 天正19(1591)年2月28日、聚楽屋敷の一室。千利休は前田利家らからの助命嘆願の勧めを断り、秀吉の切腹の命を静かに受け入れた。その直前、3人の検使にも茶を振る舞ったとされる。

 70歳の老いた自分の腹に脇差を突き立てる利休。そのまま腹を十文字にかき切って、ひきずりだした腸を自在鉤(じざいかぎ)に吊るしたという。囲炉裏は赤く染まり、茶室には血の臭いが立ちこめた。

 誰もが知る通り、利休は武士ではない。「侘び茶(わびちゃ)」を大成した、立派な茶人である。しかし、利休は茶の湯の弟子でもあった蒔田淡路守の介錯によって見事な切腹を遂げた。助命を決して請わなかったことを含め、その潔さは並の武士以上のものだったであろう。

 利休の切腹が終わると、次の間に控えていた妻の宗恩(そうおん)は夫の亡骸に綾の白小袖をかけたという。利休の首は蒔田らにより秀吉のもとへ届けられた。秀吉はその首を実際に見ることもせず、処刑の原因となった利休木像に踏みつけられる格好で一条戻橋に曝した。一説によれば、この利休の首を見るために大衆が毎日列をなしたという。… 続きを読む

全文(続き)を読む

続きを読むにはログインが必要です。

まだ会員でない方は、会員登録(無料)いただくと、続きが読めます。

連載記事

伊達政宗と片倉小十郎~独眼竜と名補佐の固い絆
かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

このページの先頭へ
Bizコンパス公式Facebook Bizコンパス公式Twitter