戦国武将 散り際の美学(第24回)

立花道雪と高橋紹運~立花宗茂の鑑となった2人の父

2014.10.12 Sun連載バックナンバー

生没年

立花道雪:
生:永正10年3月17日(1513年4月22日)
没:天正13年9月11日(1585年11月2日) 享年73

高橋紹運:
生:天文17年(1548年)
没:天正14年7月27日(1586年9月10日) 享年39

 

“雷神”道雪、陣中で無念の最期

 秀吉から“天下無双の大将”と称された武将・立花宗茂には、手本となった2人の父がいた。九州・大友家を滅亡の直前まで支えた、立花道雪と高橋紹運(じょううん)だ。

 立花道雪は、大友宗隣、龍造寺隆信、島津義久が相争う“九州三国志”において活躍した武人。十四歳の初陣以降、生涯参加した37回の戦すべてにおいて負けたことがないといわれ、敵から“鬼道雪”“雷神”の異名で恐れられた。

 “雷神”の名は道雪が若いころ落雷に打たれたという逸話に由来するものだ。道雪はこれにより半身不随になり、以後は輿のうえで戦ったといわれる。また、落雷のとき道雪は雷のなかにいた雷神を斬ったとされ、この時に刀の名を「千鳥」から「雷切」(らいきり)に改め、いつも傍に置いていたとされる。

 その道雪に、嫡子・統虎(むねとら、後の宗茂)を養子に出したのが高橋紹運だった。跡継ぎに恵まれなかった道雪は、統虎の器量に惚れ込み「鎮西(九州)にこれほどの才なし。是非わが養子に」と幾度となく懇願した。出来のいい息子を手放すのが惜しかった紹運は、はじめこそ拒絶したが、道雪の三顧の礼に折れ、天正9(1581)年に宗茂は立花家の婿養子となる。

 天正12(1584)年、沖田畷(おきたなわて、長崎県島原市)の戦いで有馬晴信と島津家久の連合軍が龍造寺隆信を討ち取ると、龍造寺氏についていた者たちが皆島津氏と関係を結びはじめる。これにより、島津氏の九州統一を阻むものは大友氏だけとなったのだ。

 一方、宗麟はこれに乗じて龍造寺攻めを開始、北九州の支配を取り戻そうと奮起する。道雪と紹運は龍造寺領土を攻め取り、要衝・柳川城(福岡県柳川市)の攻略にとりかかった。このとき、道雪すでに73歳。病魔に侵され、自分の命がそう長くないことを悟っていた彼は、主家への最後の奉公と老骨にむち打ち、指揮をふるった。

 しかし戦線は膠着する。柳川城は難攻不落の水城であり、補給路も確保されていたためだ。着陣からほぼ1年後、陣中で越年もした道雪は病に倒れた。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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