戦国武将 散り際の美学(第19回)

山県昌景~口に采配をくわえたままの見事な戦死

2014.09.03 Wed連載バックナンバー

生没年

生:享禄2年(1529年)
没:天正3年5月21日(1575年6月29日) 享年47

 

戦国最強の武田軍団のエリート

 元亀3(1572)年、三方ヶ原の戦いで若さゆえの血気にはやった徳川家康を一蹴した武田軍は、そこで冬を越すとそのまま上洛の途についた。しかし3月に入り、突如として軍を停止し、退却を開始する。

 その原因は厳しく秘されてはいたが、武田信玄の病状悪化にあった。そして4月12日、甲斐(山梨県)へと引きあげる途上で、信玄は病死する。

 その死の間際、信玄は武田軍の重臣である山県昌景を枕元に呼び寄せた。

 「武田家と勝頼の未来を頼む」

 最強の騎馬軍団を率いて上杉謙信、北条氏康らと死闘を繰り広げてきた信玄の目に、己の後を継ぐ勝頼はいかにも頼りなく映る。名将が未来を託せるのは、無敵の部隊を率いて信玄の覇道を支え続けてきた昌景をおいて他にはなかった。

 もちろん昌景に異論はない。死をひかえた主君の姿を見て、涙をこらえながらうなずいた。

 武田信玄の近習(きんじゅ)として仕えた山県昌景は、多くの武功を挙げ、信玄と厚い信頼関係を築いていた。

 永禄8(1565)年、信玄の嫡男、義信が信玄に対してクーデターを企てた。「歴史は繰り返されるのか──」。息子の企みを知らされた信玄は天を仰いで嘆息した。彼自身、かつて実の父親である信虎を、クーデターで駿河国(静岡県中部)へと追放していた。その一件が思い出されたのだ。

 このとき、いち早くこの動きを察知し、信玄に報告したのが昌景であった。彼のこの判断が武田家の危機を救った。義信は廃嫡となり、クーデターに関わった家臣も処罰された。2回目の家督争いの火種は未然に摘み取られた。

 処罰された家臣の中には昌景の実の兄・飯富虎昌もいたのだが、昌景は信玄のためを思い、告発した。これによって、信玄と確固たる信頼関係が生まれる。

 この日を境に、昌景はそれまでの飯富姓から、山県姓へと改名し、兄が率いていた赤備えを継いだ。… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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