戦国武将 散り際の美学(第15回)

山本勘助~川中島に散った幻の名軍師

2014.08.01 Fri連載バックナンバー

生没年

生:明応2年(1493年)※諸説あり
没:永禄4年9月10日(1561年10月18日) 享年69?

 

武田軍名軍師の会心の策

 永禄4(1561)年9月。甲斐(山梨県)の武田軍と越後(新潟県)の上杉軍が争った第4次川中島の戦いの出来事だった。

 信濃の海津城(長野県長野市)に入った武田軍は、なかなか妻女山(長野県長野市と千曲市の境にある山)から動かない上杉軍を、今や遅しと待ち構えていた。しびれをきらした武田軍大将の武田信玄がどなる。

 「勘助! 奴らをおびき出すいい策はないか!」

 武田軍の軍師・山本勘助が進み出ると信玄に耳打ちする。

 軍を二手に分け、まず別働隊が妻女山に夜襲をしかけ、山から逃げ出した上杉軍を待ち構えた本隊が討つという勘助の壮大な策に、信玄は満足そうにうなずいた。そしてこの作戦は、キツツキがクチバシで木を叩き、うろに潜む虫を追い出して食べる様子に似ていることから「キツツキ戦法」と名付けられた。

 一歩間違えれば、兵を2つに分けたことで、各個撃破されるという危険性もある一か八かの作戦ではあったが、勘助には自信があった。独眼で無数の刀傷の残る顔面、中指のかけ落ちた左手という異形の身でありながら、これまでにも持ち前の頭脳でいくつもの軍功をあげてきたからだ。

 天文13(1544)年、信玄は信濃の諏訪頼重を滅ぼすと、敵の側室を娶りたいと言い出した。

 重臣たちは猛反対するが、勘助のみが賛成する。「信玄様と諏訪の姫が結ばれれば、信濃攻略の足がかりとなりましょう」と重臣を説得する勘助に信玄は喜び、それ以来勘助を重用した。勘助は軍略だけでなく、築城術にも優れた才を発揮。高遠城(長野県伊那市)や小諸城(長野県小諸市)の築城に関わったとされる。

 

名誉挽回のため敵軍へ突進

 深夜、勘助の策により1万を超える武田の軍勢が妻女山へ夜襲をしかけた。しかし、そこはもぬけのカラ。上杉謙信はすでに山を下り、陣形を整えていたのだ。この日、妻女山から武田軍の陣地を眺めた謙信は、いつもよりも炊煙が多く立ち上るのを見て、勘助の奇襲を見破ったとされる。

 「まさか、勘助殿の作戦が読まれていたとは……」… 続きを読む

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かみゆ歴史編集部

かみゆ歴史編集部

歴史コンテンツメーカー

歴史関連の書籍や雑誌、デジタル媒体の編集制作を行う。ジャンルは日本史・世界史全般、アート、日本文化、宗教・神話、観光ガイドなど。おもな編集制作物に『日本の山城100名城』(洋泉社)、『一度は行きたい日本の美城』(学研)、『戦国合戦パノラマ図鑑』(ポプラ社)、『系図でたどる日本の名家・名門』(宝島社)、『大江戸今昔マップ』(KADOKAWA)、『国分寺を歩く』(イカロス出版)など多数。お城イベントプロジェクト「城フェス」の企画・運営、アプリ「戦国武将占い」の企画・開発なども行う。公式サイトはwww.camiyu.jp

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