食は江戸にあり!江戸と食にまつわるお話(第3回)

なぜ日本橋魚河岸は100万人の胃袋を満たせたのか

2016.03.06 Sun連載バックナンバー

 ユネスコの無形文化遺産に登録されたことで、世界中から注目を集めている和食の世界。日本の食文化は室町・戦国時代にほぼ完成したとされています。そして江戸時代になって、いま私達が口にしている食べ物の形に発展しました。

 今回は江戸の食文化を支えた、日本橋の魚河岸の歴史についてお話ししましょう。

 

日本橋は江戸の流通の要

 日本橋が作られた1603年のこと。徳川家康が征夷大将軍に任命され、江戸に幕府を樹立したのと同じ年の出来事でした。

 家康はもともと三河国(愛知県東部)を中心に勢力を伸ばしていきましたが、豊臣秀吉の命により、当時はまだ田舎だった関東地方に配置換えされました。家康はこれにめげず、江戸城を中心に大規模な都市建設を開始します。

 江戸幕府樹立後は、開発がが加速。諸国の大名を総動員し、江戸は“将軍のお膝元”にふさわしい都市の姿に、急ピッチで整えられていきました。

 急激な都市開発が行われると、その労働に従事する人々への食糧の供給が不可欠となります。大量の物資を運ぶ手段が必要となり、そのため町中に張り巡らされた水路と江戸と地方を繋ぐ街道の整備が行われました。

 その両方の要の位置にあったのが、江戸城の外堀と隅田川の河口を繋ぐ水路である日本橋川に架けられた日本橋でした。

 日本橋は江戸と地方を結ぶ五街道すべての起点とされ、さらに市場として発展する魚河岸(魚市場がある川岸)、米河岸(米問屋が並ぶ川岸)などが誕生しました。都市建設に必要な木材などさまざまな物資もここに集中し、江戸市中の各所に運ばれていきました。まさに江戸で一番賑わい、活気あふれる場所であったわけです。

 

魚が腐らないよう高速船で運搬

 日本橋で特に発展したのが魚河岸でした。

 家康は江戸に入ると、摂津国(大阪府北部、兵庫県南東部)から漁民を招き、佃島(現在の地下鉄月島駅北部)に移住させます。彼らは幕府の膳所(ぜぜ、台所の意味)に魚介類を供するために漁業を営みました。

 日本橋の魚河岸は当初、佃島の漁民たちが獲った魚を幕府に納めるために設置されたものです。その後、幕府に上納する残りの鮮魚を舟板の上に並べて一般に販売するようになったのが、日本橋の魚市場のはじまりとされています。

 そして次第に、佃島以外の遠近の漁民たちが「押送船」と称される高速の小舟で魚を運び込むようになり、日本橋の魚河岸が形成されていったのです。この押送船とは、漁荷専用の船で、左右に四本ずつの櫓「八丁櫓」がついており、8人で漕ぐことができる特徴があります。冷凍冷蔵技術のなかった江戸時代には、少しでも早く鮮魚を運ぶ必要があったので、こうした足の速い船が使われたのです。

 

日本橋ではうかうかしてると踏み倒される… 続きを読む

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高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

高野 晃彰/studio woofoo(www.studio-woofoo.net)

ベストフィールズ代表

大手アパレルで店舗開発を担当、その後、専門誌系出版社で企画編集を中心に勤務、退社後、編集プロダクション「ベストフィールズ」とデザインワークス「デザインスタジオタカノ」を立ち上げる。旅行・歴史・フード・ペット・マリンスポーツなどのエンタメ系から経済、ファッションまで幅広い分野での書籍・雑誌・ムック・商業制作物の執筆、編集、撮影、制作を行なっている。

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