大願を果たした大石内蔵助の徹底した「秘密主義」

「忠臣蔵」に学ぶ、目的を成し遂げるリーダーシップ

2015.12.02 Wed連載バックナンバー

 『忠臣蔵』と聞いて、知らない日本人はいないはず。正式名称は『仮名手本忠臣蔵』という名で、人形浄瑠璃や歌舞伎の世界で、江戸時代から何度となく上演されてきた。

 赤穂四十七士の名を一躍有名にしたこの作品、江戸城松の廊下で起きた刃傷事件に端を発する仇討ち騒動「赤穂事件」が下敷きになっているのはいうまでもない。そして、タイトルにわざわざ「蔵」の字が用いられているように、この討ち入り事件の主役となったのが、大石内蔵助良雄(おおいし くらのすけ よしお。以降、内蔵助)その人である。

 日本人の誰もが知っているといっても過言ではないこの仇討ち劇。その成功の要因は、リーダーである内蔵助による細心の計画にあったのだ。

 

刃傷事件から討ち入りまで

 赤穂事件の発端となったのは、1701(元禄14)年3月、江戸幕府第5代将軍、「生類憐みの令」で知られる徳川綱吉の治世の際、播磨国・赤穂藩(兵庫県赤穂市)の若き藩主・浅野内匠頭長矩(あさの たくみのかみ ながのり。以降、長矩)が、江戸城内で突如として自らの指南役にあたる吉良上野介義央(きら こうずけのすけ よしひさ。以降、上野介)に斬りかかった。乱心、遺恨……動機は諸説いわれている。その場で捕えられた内匠頭には即日切腹が申し付けられ、赤穂藩はお取り潰し、一方で上野介は不問に付された。

 そして刃傷事件の翌年、1702(元禄15)年12月に内蔵助以下46名の赤穂浪士が本所回向院近く(現在の東京都墨田区両国)の吉良屋敷に討ち入り、味方に1人の死傷者も出すことなく、見事に亡き主君の仇を取ったのである。

 

討ち入りは本意ではなかった「昼行灯」

 大石内蔵助は1659(万治2)年に赤穂藩の家老の家に生まれ、21歳で藩の筆頭家老という大役に就いたエリートだ。一方で「昼行灯」の呼び名で知られるように、一見何を考えているかわからないような、マイペースな人物だったという。

 内匠頭の一件により赤穂藩士たちは国許を追われ、内蔵助も一族の縁を頼って京都・山科に隠棲する。しかし内蔵助は当初から討ち入りを念頭に置いていたわけではなく、… 続きを読む

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大野 俊介

大野 俊介

フリーライター。新選組ゆかりの東京都下、多摩地方に生まれ育つ。歴史、食、エンターテイメントのジャンルに通じ、書籍、WEBのさまざまなメディアで執筆、編集に携わる。

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