明治を駆け抜けた偉人達(第4回)

軍事の天才・大村益次郎に学ぶ、派閥争いの無意味さ

2015.02.09 Mon連載バックナンバー

 人が集まる所では、何かしら派閥というものができるものです。自身の属する派閥に有利なように……と行動をしがちですが、軍事の天才と呼ばれた学者の大村益次郎は、派閥争いなどをせずにもっと大きな視点を持つことが大事だといいます。

 彼の足跡をたどり、彼がなぜ派閥争いを嫌ったのかを見てみましょう。

 

日本陸軍生みの親

 大村益次郎は長州藩の出身者であり、幕末から明治初期にかけて活躍した人物です。元々は医師の息子であったことから医術を学びましたが、同時に兵学を学んでおり、天才と称されるほど軍事に長けた人でした。さらに、国学・漢学・蘭学と東西のあらゆる学問を学びました。

 そして兵学の知識を活かして長州で軍制改革を行い、近代化を図りました。このとき、戦争は武士の役目であったという旧習を破り、農民・町人階級から組織された市民軍も創設しました。当時においては画期的なことであり、この軍制改革がなかったら、徳川幕府を打倒する「戊辰戦争」でもっと苦しい戦いになっていたかもしれません。

 同じく長州の蘭学者である青木周弼は、益次郎を「その才知、鬼のごとし」と評価しています。益次郎は、維新の際の戦争における功績が評価され、維新後に兵部大輔という軍事上の重役に就き、日本陸軍の生みの親となったのです。

 

「早く日本人同士が心を一つにしなければいけない」

 才能にあふれる益次郎は日本の転換期に多大な功績を残しましたが、あまりに考え方が進んでいたためか、周りから浮いていたといいます。そして先を読み過ぎて行動したために、それが理解できない者の手によって暗殺されます。その死にざまは後ほど紹介するとして、まずは今回のテーマである、益次郎が派閥争いに価値を見出さなかったエピソードを紹介します。

 維新が成就して間もないころ、明治新政府内では、維新に功績のあった各藩の人物が集まって構成されていました。功績のあった人物の集まりと言えば聞こえはいいのですが、その実態は藩同士の勢力争いによるごたごたが絶えないといった状態でした。

 このような中で益次郎は、「藩閥争いはおろかなこと」として全く関わらないようにしていました。長州の若者たちは益次郎を尊敬していたため、「先生、薩摩藩の横暴をどうお考えですか」などと意見を伺いに来ますが、そんなときには益次郎はいつも、次の様に言って注意したと言います。… 続きを読む

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南 関太郎

南 関太郎

フリーライター

2011年よりフリーライターとして執筆を開始。日本の歴史を中心に、ビジネス、経済などの分野においても執筆している。

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