明治を駆け抜けた偉人達(第3回)

戦うか、戦わざるか。生死を懸けた東郷平八郎の判断

2015.01.18 Sun連載バックナンバー

 リーダーたる者は、自らの組織を良い方向へ導くために「決断」を下すことが重要である。今回は、戦争という多くの人の生死に関わる場面で決断を下した東郷平八郎を取り上げる。

 東郷平八郎は、日清戦争・日露戦争という明治期の戦争の勝利に貢献した軍人である。特に、日露戦争の日本海海戦において、戦力の乏しい日本海軍を率いて当時世界最強の艦隊と言われていたバルチック艦隊を破った大将として特に知られている。

 東郷が軍人として名を上げたきっかけが、日清戦争の開始直前に起こった「豊島沖海戦」である。

 

敵か味方か、霧の中からやってくる2隻の軍艦

 明治27(1894)年7月25日の明け方のこと。日本海軍第一艦隊の司令官である坪井航三少将は旗艦「吉野」に乗り、清国(現在の中国)豊島沖にて「秋津洲」・「浪花」の2艦を率いていた。当時大佐の東郷平八郎は、「浪花」の艦長であった。

 夜が明けて行くと、前方の霧の中を軍艦らしいものが2隻やってくるのが見えた。近づくにつれて姿がはっきりとしてくると、その軍艦は清国の軍艦「済遠」・「広乙」であることがわかった。

 日清両国はこの時、互いに宣戦布告をしていないものの、ほんの些細なことが原因で戦争に突入するという危ない時期であった。司令官の坪井は慎重になった。相手から攻撃を仕掛けてくる可能性は大いにあるが、まだ宣戦布告がなされていない状況では、礼砲を交換して何事もなく済む可能性もある。和戦両様の準備が急がれた。

 

敵艦済遠を砲撃せよ!

 午前7時52分、両艦隊の距離は3,000メートルに近づいた。吉野は海軍の旗である少将旗を掲げているのに対し、敵艦には将官は乗っていなかった。こういう場合、将官の乗っていない方から礼砲をあげるのが通例であった。

 済遠からバッと白煙があがった。礼式の空砲かと思いきや、吉野の近くの海中へドボンと実弾が落ちた。… 続きを読む

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南 関太郎

南 関太郎

フリーライター

2011年よりフリーライターとして執筆を開始。日本の歴史を中心に、ビジネス、経済などの分野においても執筆している。

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