明治を駆け抜けた偉人達(第1回)

着飾ることは無意味、武士道を貫いた男・西郷隆盛

2014.12.23 Tue連載バックナンバー

 激動の時代、明治を駆け抜けた偉人達。彼らは何を思い、何を信念にその人生をささげたのでしょうか。この連載では明治時代の偉人達を紹介します。彼らのたどった足跡を知り、その思想や行動から学ぶことがあれば幸いです。

 第1回目では、「西郷隆盛」を紹介します。

 西郷隆盛は元々薩摩藩(鹿児島)の貧しい武家の出身でしたが、当時の藩主であった島津斉彬に重用され、藩政を動かす力を手に入れました。江戸末期には薩摩軍を率いて明治維新政府の設立に貢献、明治維新後には陸軍大将を努めました。その後、政府の方針に従えなかったために職を辞して薩摩に帰り、薩摩の若者を訓育します。しかし、図らずも政府に不満を持つ薩摩の若者に担がれて反乱を起こし、戦に敗れて自決しました。

 西郷の功績は簡単にいえば上記のようなものになりますが、彼の生き様や価値観は、現代でも心を打つものがあります。

 

着飾ることは無意味である

 西郷隆盛の生き様を一言で言い表すと「偉ぶらない」ことです。西郷についてまったく知らない人に対し説明するには、彼がいかに偉ぶらなかったかを話すのがよいでしょう。

 時が江戸から明治にうつった時、維新の功労者とされる人物は、みな国政を担う重要な地位に就きました。西郷隆盛は討幕の功績が認められ、陸軍における最高地位である陸軍大将の地位に就いたのです。

 これらの重要な地位に就いた人物の中には、江戸幕府の時代には地位が高くなかった人物も少なくありませんでした。このような人物の中には特に見られた傾向でしたが、なるべく不遇の時代のコンプレックスを払しょくするかのように、名誉の象徴としてひげを蓄え、きらびやかな服装に身を包み、政務に就く際の昼食には重箱にあつらえた豪華絢爛な昼食を食べたものです。

 しかし、西郷隆盛はこれを嫌いました。元々、名誉に執着することが嫌いである性分で、それは彼が詠んだ和歌「上衣(うわぎぬ)はさもあらばあれ敷島の大和錦を心にぞ着る」にあるとおり、着飾ることを嫌ったのです。この和歌には、たとえみすぼらしいボロを着ていたとしても、日本人としての魂が心に宿っていれば何も恥じることはないという意味が込められています。

 このように、西郷隆盛は着飾ることを好まず、特にひげを伸ばして偉ぶることを極端に嫌いました。だから、西郷隆盛の似顔絵にはひげを生やしたものがありません。もちろん上野の西郷さんの銅像にも、ひげはありません。

 彼の腹心に、桐野利秋という人物がいました。元は薩摩の郷士という半士半農(戦争がないときは農民として働き、戦争が起こった時には武士として働く)の身分の低い者でしたが、維新後は陸軍少将に躍進します。その頃の桐野は、ひげを蓄え、金の軍刀を腰にさしていました。西郷隆盛は、桐野のこうした姿に苦言を呈していたといいます。

 

犠牲となった命を忘れない

 西郷の偉ぶらない姿勢は、食事にもあらわれています。… 続きを読む

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南 関太郎

南 関太郎

フリーライター

2011年よりフリーライターとして執筆を開始。日本の歴史を中心に、ビジネス、経済などの分野においても執筆している。

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