伊藤博文:百姓から総理大臣になった男の幕末(第3回)

二十代の伊藤博文~新政府へと導かれた偶然と必然

2015.03.11 Wed連載バックナンバー

 当連載ではこれまでに、百姓として生まれた伊藤博文が、貧しいながらも懸命に生きた幼少期、恩師との出会いと別れを経験し、そして生涯の友に出会った少年期から青年期にかけての足跡を追ってきました。

 最終回の今回は、青年期には「春輔」と呼ばれていた伊藤博文が、同志である井上聞多(後の井上馨)がイギリスに渡ろうとしていることを知り、自身もイギリスに渡ろうとする所から始まります。そして幕府が崩壊し明治維新が起こるまで、怒涛の時代を生きた人生をたどりましょう。

 

命をかけてイギリス密留学へ

 第2回目では、春輔が高杉晋作らとともに過激な攘夷(外国人を国内から追い払う)行動をとっていたことを紹介しましたが、心の中では西洋文明への強い憧れも抱いていました。

 そんな春輔に、またとない機会が訪れます。当時の長州藩では、西洋文明をいち早く藩の若者に学ばせたいと考え、外国から蒸気船を購入。当時は渡航が禁じられていたものの、幕府に隠れて5人の若者をイギリスに派遣します。春輔はこのメンバーに、盟友・井上聞多とともに選ばれたのです。

 しかし、幕府に見つかれば死罪。5人は乗船するまでは外国人のふりをし、乗船してからも船底に隠れていました。

 上海からロンドンまでの航海では、メンバーが2隻に別れて出発しますが、春輔と聞多は英語で渡航目的を聞かれた際に「海軍研究」といったつもりが、「航海研究」と誤解されてしまい、乗客ではなく水夫の扱いを受けました。途中で下痢症になった春輔は、水夫用の便所がないことから船の横木にまたがってたびたび用を足し、聞多は春輔の体が激しい波にさらわれないよう、綱で縛って助けました。4カ月余りの地獄のような船旅の末にロンドンに着きましたが、別船に乗った他の3人は、先にロンドンに到着していました。

 この5人のうち、のちに大臣の役職に就いたのは春輔と門多のみ。春輔は通算で4度内閣総理大臣を務めましたが、門多はうち3度にわたって伊藤内閣の大臣を務めています。この辛い経験で、2人の絆はより深くなったのかもしれません。

 イギリス到着後は、ロンドン大学ユニバーシティ・カレッジの教授の家に寄宿し、奥さんのあたたかい世話を受けました。そして現地の学生たちと交流し、博物館・美術館・海軍の設備や造船所などを見学しました。

 たった半年間のロンドン滞在でしたが、5人の若者は英国の文明の素晴らしさを知りました。国力の違いを痛感し、これまでの攘夷の考えを捨て去ることになりました。狭い島国で暮らしていては絶対にできない経験を、長州藩の5人ができたのです。普通の人では絶対にできない経験をしたことが、春輔ののちのアドバンテージとなります。

 

完敗も和平交渉の先頭に立つ

 春輔たちのロンドン滞在が半年と短かったのには理由があります。春輔たちが旅立った1963年3月、久坂玄瑞ら長州藩尊攘派が下関でアメリカ商船を襲撃し、その報復として長州藩がイギリスやフランスなど各国の艦隊に砲撃されるという事件が起こりました。

 このことを新聞「タイムス」で知った春輔と聞多は、長州藩の攘夷政策が無益であることを説得するため、滞在を半年で切り上げ、急遽帰国するのです。

 事件を受けて急遽帰国した春輔と聞多の2人は、横浜で英公使オールコックと面会し、「20日以内に4国艦隊(イギリス・フランス・オランダ・アメリカ)が下関を攻撃する」と聞かされました。2人は「藩主を説得するので英国軍艦で送り届けて欲しい」と提言し帰藩。山口の政治堂で藩主父子に謁見したものの、説得は聞き入れられませんでした。

 やがて下関の砲撃が始まりました。4カ国連合艦隊17隻は下関を砲撃し、陸戦隊を上陸させ、長州藩の砲台を占領しました。この完敗に、攘夷を唱えていた者も戦意を失ってしまいました。

 ここで春輔が活躍します。… 続きを読む

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佐藤 マサキ

佐藤 マサキ

フリーライター

主に幕末の日本史に関して、研究・執筆している。

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