伊藤博文:百姓から総理大臣になった男の幕末(第2回)

十代の伊藤博文~師匠の死が“猛”の心を駆り立てる

2015.03.02 Mon連載バックナンバー

 明治維新前までの伊藤博文の足跡を追う、当連載。第1回目では百姓として生まれ、当時「利助」と呼ばれていた伊藤博文が、貧しく、低い身分の立場ながらも懸命に生きた幼少期を紹介しました。

 今回は、そんな利助の人生に大きく影響を与えることとなる恩師、そして友と出会った少年期から青年期にかけての足跡を追います。

 

相模沿岸警備につく~来原良蔵との武者修行

 利助が12歳の頃、日本を揺るがす大きな事件が起きました。嘉永6年(1853年)、ペリー率いるアメリカの“黒船”が浦賀に来航。翌年に下田・箱館(現在の函館)の2港が開港され、200年以上続く「鎖国」が解かれました。

 江戸幕府は諸藩に江戸湾内海・相模・房総の沿岸の警備を命じ、長州藩は相模沿岸の警備担当となりました。国元に軍事動員がかけられますが、その中に利助の名前もありました。

 相模にやってきた利助は、長州藩の来原良蔵の部下となりました。利助が能筆であること、また愛嬌のある人柄であることなど才能を見込んだ来原は、「立派な武士になりたい」という利助の希望を聞き入れ、自らの手で仕込むことにします。利助を朝4時に起こすと自分の小屋に連れて行き、マンツーマンで四書五経の講読をしました。四書五経とは「論語」「孟子」など儒学の9つの本を指し、武家社会では常識とされたものです。

 来原の指導は、相当なスパルタでした。「戦場で、草履がなければ戦えないと言えるか? 平素から裸足で歩く訓練をしておくように」と、利助に草履を履くことを禁じ、素足で野山を歩かせています。また、「寒いと言って、寒気がゆるむわけではない。初めから寒いと言わないことだ」とも説いています。

 「武士は何事も堅忍が第一だ」と厳しくしつけてくれた来原を、利助は「真に文武両道の達人」と心から慕っていました。

 

明治維新の主役が集まった松下村塾で学ぶ 

 武者修行をしながら警備を勤めた利助でしたが、任務の交代の時期を迎え、萩に帰ることになります。来原は、せっかくの修行が中断することを残念に思い、友人である長州藩の思想家・吉田松陰が講義をする、萩の私塾「松下村塾」に入門するよう紹介状を持たせました。松下村塾は、利助がかつて学んでいた久保塾を、松陰がリニューアルしたものになります。

 松陰は熱く時勢を説く情熱の人でした。時には感情を高ぶらせ、声を張り上げて講義をしました。門下生らは涙を流して感動するという日々でした。またここで学ぶ門下生は、お互いを「ぼく」「きみ」と呼び合い、身分を問わず親しく付き合いました。

 そのような松陰の教えのひとつに… 続きを読む

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佐藤 マサキ

佐藤 マサキ

フリーライター

主に幕末の日本史に関して、研究・執筆している。

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