伊藤博文:百姓から総理大臣になった男の幕末(第1回)

幼少期の伊藤博文~貧しく差別されながら学問に励む

2015.02.05 Thu連載バックナンバー

 日本の初代総理大臣として、誰もが知っている伊藤博文。初代首相をはじめ首相を4回務め、初代枢密院議長、初代貴族院議長を務めた彼は大日本帝国憲法の立案の中心となり、近代国家日本を創っていきます。そして初代韓国統監を辞めた後、韓国人の民族主義者・安重根に狙撃され、68歳の生涯をとじました。

 しかし、上に記したプロフィールはすべて、明治維新後の伊藤博文です。伊藤博文の人生を基礎となったのは、百姓の息子として生まれた江戸時代にあります。この連載では全3回に渡り、幕末における伊藤博文の生きざまを紹介します。

 どうぞ、彼の人生を追体験してみてください。きっと学ぶことがそこにあるはずです。

 

極貧の生活による父の不祥事、破産、そして家族離散

 伊藤博文は,天保12(1841)年9月2日(太陽暦では10月16日)、周防国熊毛(くまげ)郡束荷(つかり)村(現山口県光市)で、百姓の子として生まれました。当時の名前は、「伊藤」でも「博文」でもなく、「林利助」でした。

 父は林十蔵、母は琴。ふたりは結婚後3年も子宝に恵まれなかったため,利助は望まれて生まれた長男でした。幼い利助は癇癪の強い子で、少しでも意に沿わないことがあると激しく泣いていたそうです。

 父十蔵の一族の本家は村の庄屋を務めており、十蔵はその庄屋を補佐する畔頭(くろがしら)という役職でした。百姓が五人組を形成し、その五人組を束ねるのが畔頭で、その上位に庄屋がいるという構図です。しかし十蔵は、わずか5段の田と2段の畑と山林6段しか所有していませんでした。当時はその2倍の土地がないとそこそこの生活ができなかったため、他家の小作などもしていました。

 弘化3(1846)年、利助が5歳の時のこと。飢饉が日本列島を覆い、各地で一揆や打ちこわしが頻発しているような状況の中、周防国を治めていた長州藩では借銀8万貫目が明らかとなり、厳しい財政立て直し政策が行われていました。村の特産品を藩の専売とするために特産品が安く買いたたかれるなど、百姓の収入は減る一方でした。

 そんな中、父十蔵が引負(ひきおい)を生じてしまいます。引負とは、年貢として保管しておいた玄米を流用することです。十蔵はその責任を取り破産し、「(長州藩の城下町である)萩で身を立てる」と言って家を出ます。利助と琴は、母の実家である秋山家に預けられました。今で言うなら、不祥事、破産、家族離散というところです。母の実家での暮らしは、肩身が狭かったことが想像されます。

 

やんちゃだが屈折した幼少期

 利助は青白い顔をしていたため「利助のひょうたん、青びょうたん。お酒を飲んで赤うなれ」とはやし立てられ、いじめられたこともありました。しかし、「自分は武士だ」と言い、木切れを拾って刀の代わりに腰に差していました。大変に負けず嫌いなところがあり、いじめっ子にはやし立てられたある日、「戦ごっこ」をして、敵の風上から火を放ってしまいました。怪我をした子どももいたので、親たちが秋山家に苦情を持ち込んだといいます。さすがにこれはやりすぎです。

 しかし、ただやんちゃなだけではありません。… 続きを読む

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佐藤 マサキ

佐藤 マサキ

フリーライター

主に幕末の日本史に関して、研究・執筆している。

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